『第5回 年末お笑い総括報告書』
今年は久方ぶりの12月下旬放送で、ついに、かつてのM−1が帰ってきた感を覚えているのは、私だけでは無いはず。
しかも、M−1史上初めて審査員が前回と同じメンバーで、新システムも無いという、安定飛行ぶり。
ついに、漫才のみに集中できる環境が整ったのかと思いきや、前回とは打って変わっての7組が決勝初出場組という波乱の幕開け。
しかし、よくよく考えてみれば、常連組で埋め尽くされるよりも、初出場組が多い方がフレッシュ感があるし、次世代のスターの誕生を予感させられて、ある意味、これぞM−1と言った感じです。
そして、ついに、お笑い第七世代の台頭が始まるのかと思いきや、決勝に第七世代の姿は無し……(からし蓮根は第七世代にカテゴライズされるはずですが、多分世間にはそう認知されていません)
そして、優勝は、オジサン顔のミルクボーイ……
当初のフレッシュ感は皆無で、大丈夫かM−1? と思わなくもないですが、忖度無しの実力至上主義こそがM−1の神髄とばかりに、今大会を振り返っていきたいと思います。
今大会は、方々で「M−1史上最も高レベルな大会」と言われている通り、ダダスベリしたコンビがいませんでした。
ダントツの最下位は、トップのニューヨークでしたが、6位以下は点数ほどの差は無く、実力は拮抗していたと言えます。
M−1で歌ネタという、なかなかの挑戦的試みでしたが、順番さえ違えば、630点台は堅いネタでした。
他の出場コンビと明らかな点差が開いてしまったのは、よりにもよって2番目にかまいたち、3番目に和牛という優勝候補の連チャンで、点数がインフレを起こしてしまった為に他なりません。
以降のコンビは、そのインフレの恩恵を受けられましたが、インフレ以前のニューヨークだけが恩恵を受けられませんでした。
その所為で最下位になってしまったのは、不運と言わざるを得ませんが、自らの実力でインフレを起こせなかった時点で、最終決戦には残れなかったと言う事実は否めません。
しかし、まさか、後にキングオブコント2020準優勝者となろうとは、このとき誰が予想できたでしょうか?
まあ、優勝しきれないのがニューヨーククオリティ(お笑いよりもセンス的なところで勝負しようとしている)ですが、それ故に意外とまだまだ伸びしろはありそうです。
そして、今回のド本命であり、ラストイヤーだったかまいたちは、安定の1回目であり、最終決戦では、多分M−1史上初めて客いじりをしたのではないでしょうか。
多分、観客が手を挙げるか挙げないかで、二通りの結果を用意していたのではないかと思います。(想像)
流石としか言い様がありませんが、ネタに関しては、1回目の方が面白かった気がするので、それが敗因の一つかと思われます。
最終投票では、松本人志だけがかまいたちに投票していて、メチャクチャ浮いていましたが、実力などの総合的評価では、松本人志の判断は間違っていなかったと思います。
それでも、完全にラストイヤーフィルターが掛かっていた事は疑いありません。
結局、2冠はなりませんでしたが、M−1最強クラスの芸人として、後世に名を残す事でしょう。
今大会、最初の衝撃は「和牛、まさかの決勝進出ならず!」ですが、敗者復活に残っていた時点で、「敗者復活は和牛→からの優勝」説を唱えていた者は万を下りません。
そんな人々の期待や予想が視聴者投票制の敗者復活戦に影響を与えていないはずがありません。
実力的にも、前回の準優勝者は、無条件でシードにしなければ、敗者復活戦の意味がありません。
この点は改善して頂きたいものですが――となると、来年は、今回の準優勝者であるかまいたちが居なくなるので、次点である、ぺこぱが来年も決勝に来る算段になりますが、それは、流石に、まだ早い様な気がします。
どうやら、シードは「実績のある準優勝者」にした方が良いようです。
とまあ、このように、和牛を残した、今回の敗者復活戦は完全なる悪手でした。
とはいえ、2位以下も、ミキ、四千頭身、アインシュタイン、と2019年のブレイク芸人ランキングに入っているコンビが続きました。
確かに四千頭身の実力は本物ですが、それでも第七世代バブルの影響を受けていた事は疑いありません。
個人的には、敗者復活で燻らせておくよりも、第七世代枠として、本戦から決勝に進めておいても良かった様な気がしないでもありません。
このように、知名度が高いほど、得点が高くなりがちになるのは視聴者投票の弊害と言えるでしょう。
これでは、もはやネタの得点審査ではなく、ただの人気投票です。
視聴者投票である以上、敗者復活戦のネタとは関係無しに、視聴者が本戦で戦って欲しいコンビを選ぶという、一種の視聴者推薦枠的側面も、あらかじめ考慮しているのかも知れませんが。
もし仮に今回、ミルクボーイやぺこぱが、敗者復活にいたとしても、5位以内に入れたか怪しいところです。
そして、そういう実力者を取りこぼさないのが、プロの審査員の仕事です。
7位まで有名所が続く中で、8、9位に急に、無名のくらげと錦鯉が現れたので、この辺が視聴者が純粋に面白いと思ったコンビという事でしょう。
実際、「分かんねぇけど分かってる」という、くらげのネタはトップクラスに面白かったです。
錦鯉については、なぜこんなに高評価だったのか謎です。
もしかしたら、一周回って、若者達の間では、錦鯉タイプの笑いが人気なのかも知れませんが、どうやら、まだ私はその域にまでは到達していないようです。
錦鯉が決勝まで行ったときに、果たして審査員がどう評価するのかは、非常に興味深いところではありますが。
他にも、アマチュアのラランドは、少々素人っぽさ(場慣れしてない感じ)はありましたが、ネタは一級品でした。
例年なら、アマチュア枠として決勝に上がっていてもおかしくなかった程です。
マジカルラブリーは結構好きなネタだったのに、なぜか結果は14位でした。この時点でも、すでにMKRトリプルファイナリストの実力者だったという事に驚きですが、直後のR−1で優勝してしまうとは、誰が予想できたでしょうか。(決勝はR−1史上最大の世紀の凡戦だったような気がしないでもありませんが)
囲碁将棋に至っては、せっかく「ウォシュケツ」とか、いいフレーズだったのに、最後の「ウォシュレットの口」が全てを台無しにした感じです。下品系の汚いネタは、好き嫌いが真っ二つに分かれるので、グランプリでは使わない方が良いと思います。
今年は粒ぞろいの敗者復活戦でしたが、なんだかんだ言っても、和牛が一番面白かった事は疑いありません。
来年は、必ず敗者復活戦には入れない様にして頂きたいものです。
そして、さらに問題はここからです。
今回、敗者復活戦を見てから本戦を見た方は、気付いたと思いますが、和牛の本戦ネタが敗者復活戦のネタと全く同じだったのです。
この瞬間、「このネタで、最終決戦に残れるのか?」と思っていたら、まさかのラストで、ぺこぱに捲られてしまいました。
例え、敗者復活戦と同じネタでも、審査委員には初見なので、全く問題無いのですが、視聴者的には残念感パないですし、もしかしたら、熱心な審査員なら敗者復活戦を見ていなかったとは言い切れません。
もし、本戦が視聴者投票システム制だったら、かなりヤバかった事でしょう。
この油断が最終決戦に残れなかった一因だったのかもしれません。
今大会初決勝の7組の内、インディアンスとニューヨーク以外は、コンビ名すら記憶に無いダークホース揃いだったので、一体、どんなお笑いを見せてくれるのかと期待していた、その先鋒がすゑひろがりずでした。
かまいたち→和牛の次という地獄の様な順番でしたが、見事にやってのけました。
インフレはかまいたち→和牛だけではなく、それを繋いだすゑひろがりずの功績と言えます。
そのスタイルは、普通の事を古語に言い換えるというものですが、ある意味、それが一番難しく、目の付け所が良かったと言わざるを得ません。
とくに初見だったので、そのインパクトは絶大でした。
あわや(?)MFN(マイフェイバリットネタ)になるところでした。
ネタ選びも絶妙で、この序盤の3組で、すでに最終決戦出場者が決定したのではないかと思ったほどです。
――が、いきなり、次のからし蓮根に、僅差で敗退……
からし蓮根は、もろにM−1ジンクスの「食べ物系コンビ名」+ダークホースだったので、かなり警戒していましたが、そのスタイルは、かみなりにインスパイアされた田舎語的正当派漫才と言った感じで、どちらかと言うと、終始フラットに進行していった印象でした。
なんだか、警戒していた分、少々肩すかしを食らった感じです。
ぶっちゃけ、インパクトでは圧倒的にすゑひろがりずの方がありましたし、どう考えても、ニューヨークと20点以上の差が付くとは思えません。
志らく師匠も言っていた様に、テクニック的にはニューヨークの方が上だった事は明白です。
ここまで点数が伸びたのは、インフレの影響もさることながら、実は第七世代という、その若さ(将来性)に加点した結果、期せずして、すゑひろがりずを上回ってしまったというのが真相かも知れません。
とくに、上沼恵美子が病的にからし蓮根を推していましたが、これは完全にやらかしポイントです。
上沼恵美子のやらかしは完全にM−1の名物になってしまいましたが、番組冒頭での、いきなりの自著宣伝は、完全に意図的なやらかしなので、これは如何なものかと思います。
話を戻し、今回、からし蓮根のネタで一点だけ気になった所は、ラストで客を轢くくだりで、一番の爆笑が起こっていた点です。
よりによって、2019年のあおり運転イヤーに車で客を轢くという不謹慎ネタで爆笑をとる所に、恐るべき皮肉を感じざるを得ませんでした。
昨今のあおり運転問題を鑑みると、完全に時代と逆行した内容である事は否めませんが、逆に、それが面白いという所に、お笑いの真理めいた何かを感じさせられました。
昨年ブービーだったにも関わらず(ニューヨークの様に初出場トップバッターという地獄の順番だったので仕方ない)、今回決勝経験者が少なかった為、もはや、常連の風格すら醸し出していた見取り図は、見事に和牛に次ぐ5位だったので、完全に前回の雪辱を果たしたと言えるのではないかと思います。
今回も懲りずにマルコ牧師の手口(?)でダンサーの綱吉を忍ばせてきましたが、今回は普通に聞き流していました。
マルコ牧師は歴史上の偉人っぽかったので、常識として知っていなければならないものと勘違いしてしまいましたが、さすがにダンサーの綱吉は、例え有名人だったとしても、知らなくても常識を疑われる事は無いだろうと、完全にスルーしてました。
なので、「ダンサーの綱吉って誰!?」のツッコミの時には、すでにダンサーの綱吉が話に出ていた事すら忘れていたのは、私だけではないはずです。
ある意味、ネタ的には致命的だったにも関わらず、ここまで高得点だったのは、一つは、テクニックにあると言えます。
個人的には、とくに噛んだときのフォローが良かったです。
普通は無かったものとして、そのまま進めがちですが、ちゃんと弁明(?)した事は好感を持てますし、何より、漫才の流れを止めずに自然で、かつ笑いも含めたフォローは、かなりの高等テクニックです。
この一点だけ見ても、上位に匹敵するテクニックを持っている事が分かります。
それ以外でも、初出場組と比べると、落ち着いた場慣れ感を感じました。
また、「見た目が厳ついのに正統派」というのは、関西人好みのスタイルであり、完全にスーパーマラドーナを彷彿とさせるもので、よしもとがポストスーパーマラドーナとして推しているものと思われます。
ここまで、すゑひろがりず→からし蓮根→見取り図と激しい3位争いが行われたので、さすがに、無名のミルクボーイが順位争いに絡んでくる事は無かろうと思いきや、まさか今大会一番の大どんでん返しが起ころうとは、このとき、誰もが予想だにしなかったのであった……(3回目)
終わってみれば、まさかのM−1史上最高得点。
とにかくテンポが良かったです。
「〜やないかい、〜ちゃうやないかい」の繰り返しは、吉田裕の乳首ドリル(「ドリルすんのかい、せんのかい」のやつ)を彷彿させますが、それがミクルボーイのネタの核心ではなく、むしろ、その都度挿入されるツッコミの文言が秀逸で面白かったのだと思われます。
つまりは、単純にネタが面白かったのです。
偶然にも、和牛も「住んでのかい、住んでないんかい」で微妙にネタかぶりしていましたが、ミルクボーイの場合は、一つのテーマ(コーンフレークや最中(もなか))に対してのツッコミ文句の量とクオリティが半端なかったので、それを考え出しただけでも脅威です。
審査員全員が、ミルクボーイに今大会の最高得点を付けたのも理解できます。
ですが、結局、正体は何だったのかという最後のオチがヌルっと終わった点は、いち視聴者としては気になる点だったので、まだまだ進化の余地のあるネタである事は間違いありません。(そう言えば伏線も無かった様な気がする)
また、この時点では、なぜこれほどまでに、このネタが面白かったのかは分かりませんでしたが、期せずして大会中のナイツ塙のコメントで、それに気付かされることになるのは別の話。
次のオズワルドを一言で表すならば、良くも悪くも「おぎやはぎ」の一言に尽きます。
完全にインスパイアされています。
史上最高得点で、しかも動のミルクボーイの直後に、おぎやはぎ的な静のオズワルドだったので、動と静の落差が激しすぎて耳がキーン〜的に、結構な点数差が付くかと思いきや、ちょうど、からし蓮根とすゑひろがりずの間に入るという奇跡ぶり。(40点以上の差が付いていますが)
一気に最下位にまで落ちなかったのは、多少インフレの影響があったのかも知れません。
ですが、結局、ミルクボーイのインパクトが強過ぎて、オズワルドが全く印象に残っていないという人は多いのではないでしょうか。
実際、おぎやはぎに似ていたという事以外は、ネタの内容はほとんど覚えていませんでした。
静の漫才枠だったのかも知れませんが、静の漫才は、ネタかキャラが、かなりはっちゃけてないと印象に残りづらいので、M−1では些か不利になりがちです。
そして、インディアンスは、前回の敗者復活では、メチャクチャ面白かったので、かなり期待していたのですが、完全にヤっちまいました。
ミルクボーイでインフレがピークに達し、オズワルドでバブルが弾けてしまったので、不穏な気配は感じていたのですが、まさかあのような結果になるとは予想だにしませんでした。
とくに噛んだり、ミスしたような感じは無かったので(実はネタをトばしていたらしいですが、全然気付かなかったので、トばしてなくても結果は変わらなかったでしょう)、完全にネタ選びを誤っていたと言えます。
ネタがおっさんだったからか、共感できる様なネタが少なかったというか、そもそもネタの内容がわかりにくかったので、インディアンスの武器であるはすのテンションの高さが、空回りしている様にしか見えませんでした。
このネタよりも面白いネタはあるはずなのに、このネタを持ってきたのは、最終決戦用のネタを温存していたからではないかと思われます。
確かに、最終決戦に決勝よりも面白いネタを披露できれば、それが理想ですが、ネタのスタイルを複数持っているのでない限りは、現在のM−1では、それはほぼ不可能です。
「今大会はレベルが高い」と言われているとおり、最終決戦を想定していては、決勝を勝ちきれません。
それは、参加者も皆重々承知しているはずですが、優勝のみを目標としているならば、決勝は力を抑えてでも、という賭けは必要になるのかも知れません。
インディアンスが、このような賭けに出ていたのではと、私が勘ぐっている根拠は、M−1前に行われたTHE MANZAIの方が遙かに面白かったからです。
間違いなく、このネタを最終決戦でやるつもりだった事は想像に難くありません。
ですが、今大会では、そのネタでも最終決戦に残る事はできなかったでしょう。
トップのニューヨークの得点は参考点なので、インディアンスが実質最下位と言っても過言ではありません。
ある意味、全力を出せずに終わったインディアンスは、不完全燃焼感パないのではないかと思います。
期待のインディアンスが大コケしてしまった(内容的に)時点で、次のぺこぱは、ただの消化試合かと思いきや、ぺこぱの漫才半ばで、すでにMFN確定です。
まさか最後の最後に、こんなコンビが現れようとは、誰が予想できたでしょうか?
近年(のM−1で)稀に見る衝撃でした。
もしかすると、いきなりミルクボーイの史上最高得点が更新されるんじゃないかと思った程です。
結果は、流石にそれほど点数は伸びず、和牛とたった2点差の、ギリギリ最終決戦進出……
意外と審査員の評価が低かったので、この時点で、優勝は危ういなという予感はしていました。
しかし、松本人志云うところの「ノリツッコまない」と謂う、ツッコむと見せかけてツッコまないという新境地を開拓した功績は計り知れません。
この、通常のツッコミの裏をかいた画期的ツッコミは、ツッコミに対するアンチテーゼと言えるかも知れません。(言い過ぎ)
これはとんでもない新人が現れやがったぜ、と思いきや、芸歴11年というすでに新人(?)というフェイク。
ミルクボーイも同じくらいの芸歴なので、第七世代が勢いを増す中で、和牛世代の底力を見せつけられた感じです。(現在では素知らぬ顔でヌルッと第七世代に入っていますが)
決勝は三者三様で、どこが優勝してもおかしくない程でしたが、ぺこぱフィルターが付いていた私としては、ミルクボーイとぺこぱの一騎打ちになるのではないかと予想――からの、まさかの0票……流石に0票は予想外です。
とは言え、今回唯一の非吉本というカミナリ枠でありながら、最終決戦にも残ったので、M−1ブレイク確定です。
ミルクボーイの見た目がおっさん過ぎるので、むしろミルクボーイよりもスター性が有りそうです。
今回のM−1は、ミルクボーイとぺこぱという、二つのダークホースが現れたダブルダークホース回であったと言えるでしょう。
今回、優勝できなかったぺこぱですが、今後もM−1で活躍できるかと言えば、少々難しいかも知れません。
今回は、初見効果で絶大なインパクトを与えることができましたが、次回からは、「ノリツッコまない」も、ただのいちスタイルとして見られるので、純粋なネタ勝負になってしまいます。
少なくとも、初見効果の無い次回以降は、今回の5割増しで面白いネタでなければ決勝進出すら難しいかも知れません。
しかし、新境地のスタイルである「ノリツッコまない」は、ツッコミに対するツッコミという二重ツッコミの構造を持っており、「ノリツッコまない」という以外にもいろいろと応用が利きそうなので、その伸びしろは未知数です。
ネタ次第では、大化けする可能性も秘めているので、次回の成長を期待しています。
あと、「時を戻そう」は、地味に今回のM−1流行語大賞です。
今回の審査では、審査員が前回と同じメンバーだった為か、変に審査が荒れませんでした。
それはそれで良いのですが、やはり権威のある大会なので、いろいろな問題を避ける為にも、審査員メンバーの固定化は如何なものかと思います。
なにより、参加者には悪いですが、新人審査員の珍審査も見所の一つです。
最近では、アンガ田中がお笑い審査員として評判を上げてきているので、2、3年後には、M−1の審査員になっているかもしれません。(『THE W』の審査ではヤっちまってましたが)
また、ノンスタ石田もお笑い評論が話題になっており、すでに一度M−1の審査員を経験しているので、次回の最有力候補と言えます。
今回の審査員メンバーの中では、やはり、御三家(松本人志、オール巨人、上沼恵美子)以外では、ナイツ塙の審査員力が頭一つ抜けている様な気がします。
前回もわりと好評でしたが、今回も、インディアンスの漫才に対して、「平和過ぎる」と評した点にハッとさせられました。
それは言い換えれば、「平和過ぎる=毒が無い=毒はお笑いの元」と言う事になります。(独自解釈)
目からうろこです。
お笑いの元とは「常識とのズレ」的な事がよく言われますが、「毒(舌)」は、ズレとは異なる笑いであり、ふと気付けば、お笑いやギャグマンガは毒で満ちあふれている事に気付かされます。
しかし、毒は犯罪です。
物理的な毒だけでなく、言葉の毒もまた、場合によっては、犯罪(侮辱罪)になります。
しかし、それは、紛うこと無く面白いのです。
この、道徳とお笑いとのアンビヴァレントな板挟み的感情を、どう整合させれば良いのか、リアルに悩ましい事態が発生してしまいました。
ナイツ塙は、ミルクボーイも「平和的」と言っていましたが、結構コーンフレークの事をディスっていましたし、最中(もなか)に至ってはディスりしかありませんでした。
商品に対する毒は偽計業務妨害罪になります。
ミルクボーイ、とんだ毒吐きヤロウどもです。(※侮辱罪)
ここに至って、ナイツ塙の「平和的」と言う言葉は、「カミナリ的な(暴力的)ツッコミが無い」と言う意味での「平和的」だったのかも知れないという事に気付きました。
しかし、「毒が面白い→犯罪は楽しい」(飛躍)という真理に気付いてしまった以上、どうにかこうにか、この悪の真理を否定しなければ、世界に倫理崩壊が起こって、人類が滅亡してしまう、と言う正義感に駆られて、思索してみたところ、結局「お笑いはフィクション」という結論に至りました。
考えてみれば、お笑いは演劇の一種なので、フィクションなのは当たり前の事なのですが、ゲームや映画と違って、お笑いやバラエティをフィクションと認識していない人間は、多分メチャクチャ多いです。(とくに西の住人)
ゲームや映画の中での犯罪行為(バッタバッタと人を斬り倒す、他人の家のタンスを漁ってアイテムを手に入れる等)は、メチャクチャ楽しいですが、それを現実で実行してはいけませんし、そもそも実行しようとすら思わないのが普通です。
ですが、フィクションという認識の無い人間は、それを現実で実行しまうのかも知れません。
「現実と空想の区別が付かない」とは、そういう事なのかも知れません。
この現象は、人の善悪感はフィクションとリアルとでは異なるから起こるのでしょうが、よくよく考えてみれば、善悪感だけでなく、そもそも善悪自体がフィクションとリアルとでは異なるという事に、今更気付かされます。
フィクション世界では、必ずしも現実の犯罪が犯罪とはなりません。
犯罪では無いのだから、当然、悪とは認識されません。
殺人(敵を倒す事)すらも同様です。
そもそも倫理が存在しないどころか、もしかしたら存在し得ません。
フィクション世界とは、そういう世界です。
このように、フィクションという虚数世界では、善悪の認識や価値観すらリアルと異なります。
それ故、その自覚を持たなければ、リアルの認識自体が、それに引きずられて歪められてしまいます。
所謂、「深淵を覗く時、深淵もまたお前を見ているのだぁッ!」(byニーチェ)のアレです。
ありとあらゆるフィクションは深淵であり、お笑いもまた深淵なのです。
そもそも、深淵を覗くまでもなく、水面に映る姿ですら、人の認識を狂わせます。
鏡に映った姿が自分の本当の姿ではないと言う事を、大抵の人は忘れています。(左右が反転しているので)
フィクションの中で、ヒーローが悪の幹部(多分、人間)を必殺技で殺しても罪に問われないからと言って、現実で悪の幹部を殺したら、普通に殺人罪になります。(敵を倒すのではなく、逮捕するのが法治国家のヤリ方)
フィクションでの出来事を、現実に持ち込むならば、よく考えてから実行しなければなりません。
そして、フィクションとはゲームや映画だけでなく、お笑いやバラエティ、極論すれば、テレビは全てフィクション(ヤラセ)という認識は必要です。
バラエティの罰ゲームは、罰なんだから、考えるまでも無く犯罪です。
あれはフィクション(テレビ番組)だから犯罪では無いだけで、現実に持ち込んではいけません。
しかし、現実とフィクションの区別が付いていない人間が、激辛カレー事件を起こし、無遠慮に他人をイジっては刃傷沙汰になったりしているのです。
そうです。
お笑いの基礎技術たる「イジリ」もまた、フィクションだから許されるのであって、現実では犯罪(侮辱罪)になり得ます。
イジリを封じられては、お笑いなど、不可能な様に思われますが、今一度、基礎に立ち返り、お笑いの基本とは何かと考えてみるに、それは「ピエロ」に他なりません。
ピエロとは「笑われるもの」であり、「笑わせるもの」であるお笑いとは、相反する様に思われますが、そもそも「笑わせる」為には、誰かが「笑われる」必要があります。
故に、「笑わせる」為に「笑われている」ピエロとは、構造的にお笑いと全く同じであり、笑いの基本にして根源であると言えます。
しかし、当然、ピエロに向けられる笑いとは、「嘲笑」に他なりません。
即ち、三段論法的に、お笑いもまた「嘲笑」という事になります。
「嘲笑」とは、社会的に勧められるものではないし、ともすれば侮辱にもなりかねないネガティブな感情の産物であると言えます。
それが、お笑いの本質なのだとすれば、お笑いもまた、ネガティブな物という事になりますが、それは問題ではありません。
なぜなら、フィクションだからです。
虚数世界(フィクション)でのネガティブな感情は、現実に反映されない限り、ネガティブなものとはなりません。
ですが、当然、深淵は徐々に人の精神を蝕んでいくので、強靱な理性が必要になります。
つまり、お笑いとはR−18指定と言えるでしょう。
当然、バラエティ番組もR−18指定です。
むしろ、バラエティ番組の方がヤバイです。
自身がピエロとなるお笑いならば、犯罪性は低いですが、バラエティ番組の様に、他者をイジる事をメインとするタイプの笑いは、言うまでもなく犯罪です。
侮辱罪云々の前に、お笑いの根源がピエロである以上、他者をイジるという行為は、「他者をピエロ(笑い者)に仕立て上げる」という事に他なりません。
バラエティ番組のように、相手がそれに同意しており、金銭契約がなされているのならば、それは仕事としてフィクションになりますが、現実世界において相手の同意も無しに、そんな事をしてしまえば、言い逃れのできない犯罪行為と化してしまいます。
素人は、「笑いさえ起これば(おいしくなれば)、イジられた相手も本望だろう」と考えがちですが、結局、評価されるのは、イジった側であり、イジられてピエロにされた側は、笑われ損ですし、それをネタに嘲笑(=侮辱)され続ける事となるので、イジられて喜ぶのは真性のドMさんくらいのものです。
「おいしくなる」ということは、みんなからイジられるということなので、下手にイジられると、あとは地獄しかありません。
そもそも、イジラレ芸人ですら、プライベートでイジられたら、普通にブチ切れます。
『家なき子』的に言うところの「人をイジりたいなら、金(ギャラ)を出せ!」です。
まあ、イジリが必ずしも侮辱になるとは限りませんが、大抵の人は、侮辱とそうで無い事の区別は付けられないでしょうし、イジラレる側によっても、その基準は異なるので、その辺のさじ加減がうまくできない人は、絶対に人をイジってはなりません。
基本的に、失敗談などの、その場限りで終わる様なイジリは良いかも知れませんが、コンプレックス等の変え様のない長期的事象をイジる事は鬼門です。
当然、素人やイジリ下手芸人は、その辺が全く分かっていません。
「とりあえず、イジって笑いが起こればOK」的な短絡思考を持ちがちです。
相手の気持ちや後のフォローなどを全く考えていません。
その点、イジりのうまい人は、相手のコンプレックスをイジる際は、むしろコンプレックスを払拭させる様なイジリ方をするので、それはもはや特殊能力の範囲であり、一般人が真似をしても良い領域ではありません。
医者が体を切るのは治療ですが、素人が切れば傷害(犯罪)になるのと同じです。
テレビ番組で、イジリ下手な芸人がノリで素人のコンプレックスをイジる事がありますが、それで笑いが起こるのは、テレビ収録の雰囲気による、その場限りの忖度的なものでしかなく、後には素人による地獄の侮辱イジリが待っている(短期的には人気者になれますが、長期的には周囲の侮辱に苦しめられることになる)場合が多いです。
結局、下手なイジリが通用するのは、テレビの中だけのフィクションという事です。
そもそも、イジられてまでおいしくなりたいと思っている一般人は稀です。
現実でイジリが通用するのは、自ら「おいしくなりたい」と望む大阪圏の住人のみで、それ以外の日本人には通用しません。
現実におけるイジリ文化とは、大阪圏のみのガラパゴス文化であると言えます。(故に「お笑い文化」は大阪圏の物と言えますが)
イジリという行為が、如何に危ういかは上記の通りですが、お笑いにおいては、必要不可欠な、欠くべからざるスキルです。(故に、イジリが日常的な大阪圏の方が優秀な芸人が生まれる確率が高い)
お笑いとは、自身がピエロになるものですが、コンビ(複数)の場合は、話が違ってきます。
コンビにおけるピエロ役はボケ役のみであり、ツッコミ役はピエロではありません。
ツッコミとは、イジリの一種であり、それはボケを、よりピエロたらしめる効果があります。
このボケとツッコミによるコンビのお笑い形式こそが、ピエロのみに因らない、より進化したお笑いシステムであると言えます。
本来、お笑い芸人単体としては、ボケができるだけで十分ですが、ツッコミ(イジリ)の存在により、より高次のお笑いとして昇華させることが可能になりました。
このように、現代において、イジリ役の存在は必要不可欠なものとなっているのです。
現代においては、もはや、ボケしかできない芸人は、他者のツッコミありきでしか活躍できないイジラレ芸人になるしかありません。(極論)
イジリができるツッコミ芸人が、バラエティ番組のMCになるのは、こういった事情からであり、逆にイジリができない芸人は、バラエティ番組のMCにはなり得ません。(ボケをMCにして、別のイジリ役がMCをイジるという変化球も存在しますが)
そして、MC芸人は世間から崇拝され、イジラレ芸人はピエロとして嘲笑(=侮辱)される事となります。
故に、お笑い芸人は、ピエロ(ボケ)として嘲笑されるだけでなく、ツッコミを身につけて、嘲笑している人間を牽制する武器を持ってこそ、ピエロから脱却したお笑い芸人として認められると言えます。
そう、「イジリ(ツッコミ)は武器」です。
「言葉はナイフ」と言いますが、「言葉」とは「イジリ」の事です。
当然、イジリ(武器)を用いて良いのは、フィクションの中だけです。
「イジリの功罪」や「フィクションの影響力」など、お笑い批評してたら、期せずして人間真理の一端を垣間見てしまった心境です。
ゲームやアニメだけでなく、お笑いやバラエティ番組もまたはフィクションであるという事を忘れてはなりません。
しかし、現実との境界を曖昧にしているのは、漫才ではなく、むしろバラエティ番組におけるイジリの方である事に気付かされます。
バラエティ番組に限らず、ニュースにおいてもキャスター同士のやり取りは、台本のあるフィクションである事があります。
結局、何が事実で、何がフィクションであるかの選別は、容易にフェイクニュースに踊らされる様な素人が簡単にできることではありません。(やらなければならないことではありますが)
昨今、テレビ番組で、やたらとコンプライアンスが叫ばれているのは、こういった事情からなのかも知れません。
大人ですら、テレビ内でのコンプライアンス違反(犯罪行為)を選別できないのに、況んや子供をや、です。
世のモンペがテレビ局にクレームを入れるわけです。
テレビ番組は全てフィクション(ヤラセ)だの、お笑いは嘲笑だのと、ネガティブな事ばかり、あげつらってきましたが、世の教育ママ達が遊びを敵視するのは、いかなる娯楽にもネガティブな面が含まれているからです。
逆説的に、そういったネガティブな面こそが娯楽たり得る要素であると言えるのかも知れません。
「娯楽とは、フィクションの中で犯罪を楽しむこと」と言うのは、過激に過ぎますが、そう言った一面がある事もまた事実です。
大人気洋ゲーの『GTA』なんかは、まさにそれを体現しています。
『GTA』に限らず、洋ゲーでは、文字通り「犯罪を楽しむ」系のゲームが大人気です。
「欧米は倫理が崩壊しているだけで、我が日本は違う!」とは言い切れません。
そもそも、「敵を倒す」=「人を殺す」です。
無双系のゲームでは、「バッタバッタと人を斬り殺すのが爽快」という点をウリにしています。
完全に倫理崩壊しています。
世界中の人々が戦争を否定しながら、戦争系のゲームは世界中で大人気です。
ゲームに限らず、人々は暴力を否定しながら、この世には、格闘技が存在します。
この様に、世の中は矛盾に満ちている様に思えますが、全く矛盾ではありません。
だって、フィクション(娯楽)なのだから。
ゲームがフィクションと言うのは分かりやすいですが、リアルな格闘技がフィクションと言うのは、自分で言っていても、全く訳が分かりません。
ですが、そうでなければ、世に矛盾が生じてしまうので、きっとそうなのでしょう。
多分、そもそも、娯楽という物がフィクションを指向しているのだと思います。
世界中の全ての国で、暴行や傷害は犯罪なのに、格闘技の場では、それが許されるとか、訳が分からな過ぎます。
そうまでして、暴行・傷害を許さなければならない理由は何なのか?
そもそもは、技術の継承やら、悪に対する護身技術やらの為に、法律をねじ曲げてまで暴行・傷害を認めたのでしょうが、それを娯楽として興行するのは、明らかに理念を逸脱しています。
しかし、それをそのまま放置しているのは、暴力を求める人間のサガのガス抜きくらいしか理由が思いつきません。
多分、それも一理あるでしょう。
つまり、娯楽の為に法律が折れたという事です。
技術的にテレビゲームという物が作られた事により、本や映画などで単にフィクションを見るだけで無く、体験できるようになりましたが、テレビゲームが無かった時代にフィクションを体験する為には、このように、法律の方をねじ曲げて、無理矢理フィクションっぽい事を実現するしか無かったのでしょう。
それは、格闘技に限らず、映画やテレビ番組にも言えることです。
映画やテレビ番組で、より高次のフィクションを人々に見せる為には、多くの違法行為が必要になります。
怪我をするかも知れない、場合によって命に関わるかも知れないスタントなんて物は、如何に自傷・自殺行為とは言え、仕事として、それを強要したら、完全に強要罪とか自殺教唆です。
しかし、テレビ過渡期における混乱の中で「テレビの中のフィクション」という曖昧な理由で、法律を煙に巻いて、うやむやにしてきたのかも知れません。
そして、スタントが許されるなら、人をイジる(侮辱)くらい大した事は無いし、暴力行為も演出と言えば誤魔化せる、と次第にリスキーシフトしていったのかも知れません。
そして、このような行為が、人々にテレビ(フィクション)と現実の区別を曖昧にさせてきたとも言えます。
近年、コンプライアンスが叫ばれる様になったのは、ようやく、その事実に気づき、「テレビの中はフィクション」という言い訳で、なあなあにしてきた違法行為(ブラック寄りのグレーと言い訳してきた行為)を改める姿勢の表れに他なりません。
しかし、テレビから、このまま犯罪性が失われれば、娯楽としての面白さは、確実に減っていきます。
なぜなら、「娯楽とは、フィクションの中で犯罪を楽しむこと」だからです。
「最近のテレビはつまらない」という意見は、確かに一理あるのです。
ですが、実際には、そんなにつまらなくはありません。
むしろ、どんどん面白くなっています。
昔は、フィクションと現実の区別が曖昧で、番組の面白さの為には手段を選ばずに違法行為をしていましたが、現在では、フィクションと割り切って、手段さえ選べば何をしてもOKと気付いた頭の良い人々により、むしろ、想像力さえ有れば、無限に面白い事が可能となっているので、面白くない訳がありません。
「娯楽とは、フィクションの中で犯罪を楽しむこと」と反復しているので、まるで、それが娯楽の全てであるかの様に勘違いされそうですが、最初に言った様に、それは娯楽の一面でしか有りません。
そもそも、娯楽とは、そのままの辞書的意味で「楽しむこと」であり、それは無限に存在します。
当然、サイコパスによる反社会的な楽しみという物も、この世には存在していますが、そう言った娯楽は、当然、現実においては許されていません。
ですが、フィクションの中でならば、許されます。
フィクションの中では、全ての娯楽が許されるのです。
故に、娯楽はフィクションを指向していると言えるのです。
当然、現実(法律の範囲内)で楽しめる娯楽は、たくさんありますが、それらの娯楽でさえも、究極的には、法律の範囲(土地や国境、他人の迷惑)を超えて楽しめる事を目的としている事は疑いありません。
法律、ひいては社会の束縛から解放されて、真の自由を得ることこそが、娯楽の意義なのかも知れません。
その自由の中で、単にストレスを解消するだけの人もいれば、何かを発見して、現実に還元する人もいるでしょう。
後者の方が、高尚で有意義な事の様に思えますが、それは他者の価値観でしかなく、それを目的とした時点で自由では無くなってしまいます。
娯楽における目的とは、常に自発的な物でなくてはなりません。
故に、娯楽とは、完全に個人的な物であると言えます。
現状、そこに他者を巻き込む際には、さらなるルール(不自由)が必要になります。
しかし、そのルールをブッチぎれる最も簡単で、至高の方法が想像であり、フィクションです。
この時点で、フルダイブ型VRを越える娯楽は存在し得ないことが分かります。
娯楽とは、楽しむことですが、単純な快楽追求では、ドラッグに勝てません。
しかし、ドラッグなどの、行為・思考を伴わない単純な快楽のみを追求した物は、娯楽には含まれないと定義します。
ドラッグの究極は、廃人化なので、つまりは自殺であり、ある意味、安楽死です。
娯楽においても、ネトゲ廃人なんて言葉が有る様に、もしかしたら、娯楽の究極は、廃人化なのかも知れません。
つまり、ドラッグは、娯楽の究極と言えます。
しかし、「人は娯楽のみにて生くるにあらず」です。
娯楽は、あくまで娯楽であり、現実の添え物でしかありません。
人は現実(社会)を放棄して、娯楽中心には生きられません。
完全なる自由とは個人的な物であり、他者との関係(社会)を切り離せない現実では、手に入れることは不可能です。
そのような、娯楽と言う完全なる自由(完全個人世界)に耽溺したくなる気持ちは、誰しもが持っており、娯楽自体に麻薬的性質がある事は否定できません。
結局、娯楽に耽溺しすぎて廃人化するかどうかは、心の強さの問題になってきますが、それは、全ての事柄に言える事なので、どうしようもありません。
効果的な心の強さを鍛える訓練方法やメソッドの発明は、ノーベル平和賞を終わらせるレベルの人類史上最大の発明となる事でしょう。
くじけそうで負けそうな俺(自分)を頑張らせる事さえできれば、戦争なんて起きえません。
とは言え、問題は、心の強さ以前に、そもそも、テレビの影響により、フィクションと現実の区別が付けられない人々もいると言うことです。
イジリが犯罪になりうると言うことは先述しましたが、当然、ツッコミも犯罪(暴行罪)になります。
現実でカミナリ張りの強烈なツッコミをやったら、完全に一発アウト(暴行罪)ですが、「実際にカミナリがやっているから」「お笑い番組でやっていたから」という大義名分さえ有れば、やっても犯罪にはならないと、本気で信じている人間は、割といます。(そういう意味でも、ぺこぱの非攻撃的ツッコミはツッコミ革命であり、まさに時代を反映したコンプライアンスツッコミと言えます)
このように、フィクションと現実の区別が付けられない人は、今一度、「人の嫌がることはしない」「自分がやられて嫌な事は、他人にもしない」という道徳の基礎に立ち返ってみる必要があります。
この原則さえ守れば、いちいち頭を使って、フィクションと現実を厳密に分析する必要もありません。
当然、この原則だけでは、いろいろと不都合は生じてしまいますが、それでも、何の努力も分析もせずに、「人の嫌がることをする」自由を行使しようとするなら、トラブルが起こるのは当然です。
「人の嫌がることをする」自由を得たいなら、相応の知力を身につけるか、ゲームなどのフィクション世界でそれを実現するしか有りません。
しかし、実際には、強烈なツッコミ程度の犯罪は見過ごされるのが普通で、怪我でもしなければ、警察は動かないでしょうし、そもそも警察に訴える人もいません。
だからと言って、暴力が犯罪である事には、変わりません。
訴えられないからと言って、多少の暴力を繰り返し、厳密に言えば前科1万犯、なんて人はそんじょそこらに居ます。(ある意味、犯罪者よりも犯罪者)
このような暴力依存症の人々の為に、格闘技という娯楽が許されているのかも知れませんが、十分ではありません。
もっと簡単に暴力欲を満たすには、やはり、フルダイブ型VRの完成を待たなければならないのでしょうが、それに依存し過ぎるとまた、フィクションと現実の区別が付けられなくなるので、結局、心の強さが一番大事という結論に至ります。
人は自由を求めますが、当然、反社会的な自由を求める人もいます。
とくに、ほとんどの男性は、下半身的な理由で反社会的願望を持たざるを得ません。
しかし、繰り返しますが、反社会的な自由が犯罪になるのは、現実世界においてのみであり、フィクションの世界では、それは犯罪ではありません。
犯罪では無いだけで、悪である事に変わりは無いと言えるかも知れませんが、果たして、現実に影響を及ぼさない悪は、悪と言えるのかというのは問題です。
当然、フィクション世界での犯罪行為は、現実に影響を及ぼしうる可能性を孕んでいます。
しかし、それを心の強さで自制さえできれば、理論上は何の問題もありません。
つまり、人は皆、右目(多分、本来は左目)に悪魔を宿している厨二の様なものであるという事です。
当然、右目の悪魔は、理性により厳重に押さえ込まなければなりませんが、虚数世界でその力を解放することにより、現実への悪魔の浸蝕を防ぐことができるが、解放し過ぎると逆に浸蝕を加速してしまうと言う設定です。
気が付けば、いつの間にか、お笑い談義から、人類皆厨二論にまで飛躍していましたが、結局、お笑いの根源とは「嘲笑」であるが、お笑いというフィクションの中でなら「嘲笑」も許容されるという事を言いたかっただけです。
ただ、このように、「笑いは嘲笑だ」などとニヒリスティックに斜に構えた事を言っていると、ルルーシュさんに「お前は知っているのか? ナナリーの笑顔の意味をッ!!」とか言って、ぶん殴られそうです。
当然、全ての笑顔が「嘲笑」である訳ではありません。
笑顔には、様々な理由があるでしょう。
確かに「可笑しい」時の笑いは「嘲笑」に分類されますが、「嬉しい」時にも人は笑顔になります。
幸福な笑顔とは「嬉しい」時の笑顔の事を言うのかも知れません。
「お笑いで生み出される笑いは嘲笑である」とは言っても、100%が嘲笑という訳ではなく、嬉しくなる様なお笑いのネタも存在します。
例えば、あるあるネタなどは、共感からの笑いによるものなので、必ずしも嘲笑とは言えません。
あるあるネタに限らず、お笑いネタには、ある程度の共感性が必要であり、そこには、嘲笑とは異なる笑顔の感情も含まれます。
毒舌の面白さも、単なるディスりではなく、一種のあるある的な側面があり、即ち、「みんなもそう思っている」というところに笑いが生まれるのかも知れません。(かえって、厄介な気もしますが……)
お笑いとは、このような様々な要素による複雑なブレンドで構成されているが故に、現実でも必要とされ、求められ続けられるのかも知れません。
ただし、その扱いを間違えれば、嘲笑の割合が増し、現実に悪魔を引き込むことになってしまう事を忘れてはなりません。
故に、お笑いは、R100的娯楽たり得ると言えます。
――と言うわけで、M−1からかなり話が逸れてしまいましたが、今回のM−1を一言で表すならば、完全なるダークホース回でした。(唐突にまとめ)
無名のダークホース達が、ここ数年の常連実力者と戦い、これに勝利するという結果は、新たなM−1の幕開けを予感させます。
常連の実力者達の争いもM−1ですが、無名のダークホース達が覇を競う姿こそが、M−1本来の姿なのかも知れません。
もし仮に、無名のダークホース達の為のM−1を実現するならば、ブレイク芸人ランキングに入るような、すでに知名度の高いコンビの出場を制限する必要があります。
しかし、それは流石にM−1の理念に反するので、今回のように、本戦は無名のコンビを多目にして、知名度の高いコンビを敗者復活戦に集めて、判断を視聴者に委ねるという手段は有効です。
もしかしたら、今回のM−1は、「ダークホース(無名若手)の為のM−1」を実現する為の実験回だったのかも知れません。
今後のM−1がどのような道を辿るのかは楽しみな所ではありますが、終わってみれば、結局、今年も「食べ物系コンビ名のダークホース」が優勝してしまったので、いい加減このジンクスは、どうにかして頂きたいものです。
ご清聴、ありがとうございました。
2020/11/28
(; ̄□ ̄)ノ<講評〜ってゆーか雑談)
…………
――ってゆーか、もうすぐ次回のM−1始まるじゃんッ!
――と言うわけで、今回は、前代未聞クラスの遅筆ぶりでした。
コロナ禍だったしね。
いや、コロナ禍なら、自粛期間とか巣ごもりとかで、執筆時間は十分にあったかと思いきや、全くそれどころではありませんでした。
むしろ、自粛期間に素直に巣ごもりとかしてた人間って、芸能人とかのブルジョワだけだろって感じです。
一般人はコロナ対策で仕事量が増えたにも関わらず、給料は激減というブラックな状況で、異世界転生一歩手前な状態です。
倒産・リストラよりはマシと思いたいですが、それも時間の問題かという不安に苛まれ続けるなら、もういっそという気持ちも無くはない絶望的状況の中にあっても、どんなに辛くとも今世をまっとうすべし!というOC社の精神でなんとか生きている、今日この頃。
――とは言え、この雑文に関しては、コロナ禍が激化する前の1,2月の内に完成させとけば良かったのですが、これには以下の様なやんごとなき事情があったわけで……
まずは、1月にWindows7のサポートが切れるので、正月中にWindows10に入れ替えようとしたら、案の定、まんまと失敗してしまいました。
この期に、パソコンも新調しようと、己のパソコン力を過信して自作したのが、間違いでした。
完全にWindows10を甘く見てました。
世の人々が、Windows7のサポートが切れるまで使い続けるわけです。
デフォルト状態なのに起動に5分も掛かるとか、シャットダウンしても再起動する(高速スタートアップを無効にしても)とか、SHIFTが勝手にロックされる(ロック設定はオフにしているのに)とか、アップデートすると一部のアプリが起動しなくなるとか、Webの解決策が一切通用しないとか、とても素人には手に負えません。
なので、そのうち素直にメーカー品を買おうかと思いつつ、結局、いまだに旧Windows7機を使用するハメに……。
二因目は、年末から正月に掛けてのグラブル200連ガチャを面白半分で引いてしまった為です。
グラブルはアニメ第一期のときに始めて、65章で止めていたのですが、アニメ第二期が始まり、件の200連ガチャ祭の時に再開したら、まんまとハマってしまいました。
当然、無課金ユーザーなので、今まではガチャ産SSRキャラはほとんどいなかったのですが、今回のイベントで一気に20人も増えました。
多すぎて、全く手に負えません。
――が、この時点では、未だに水SSRキャラは非ガチャのAqours2年生のみ……
というか、3月の6周年イベントを経た時点で、1200回近くガチャを回しているにも関わらず、水SSRキャラが一つも出ないって……
これがガチャの恐ろしさか……
交換でどうにか2人集めたので、とりあえずギリギリ水SSRパーティを編成できましたが、多分、Rank150では最弱(「四天王の中では最弱」のニュアンスで)の部類に入っています。
Rankだけ上げて、武器sklを全く上げてないパターンです。(戦力MAX25)
まあ、グラブルは、ストーリーメインでプレイしているので、そんなに強くなくても良いのですが、それでもプレイしていると、救援で俺TUEEE(MVPを取ること)したくなるのが人情というものです。
それに、なんだかんだ言っても、グラブルはキャラゲーなので、推しキャラができると、推しキャラに、俺TUEEEさせたくもなります。
主人公が奥義MAX50万ダメージくらいしか出せていないときに、火ユイシスが200万近いダメージを叩き出したときの衝撃は計り知れません。
このとき、初めて単独奥義がチェインバーストを越えると知りました。
後に、闇バザラガも調整されて、同じくらいの奥義が出せる様になった上に、20ターン無敵って……
あの使えなかった闇バザラガが、一気にエースに上り詰めるという大出世も衝撃的でした。
とりあえず、毎日マグナを回ってれば、そのうち最弱を抜け出して、初心者に対して、俺TUEEEできる日が来るかも知れません。
しかし、かれこれ、半年くらいマグナを回っていますが、いまだに装備武器のスキルレベルを15にできていません。(Lv20はもはや廃人レベルなので不可能)
マゾゲーと言われる訳です。
そこそこプレーヤーの最終目標としては、オルターエゴくらいにはなっておきたいと思いますが、道は果てしなく長いです。(現在プレイ休止中)
そう言えば、グラブルをやっていて気付いたのですが、AmazonのアニメBDランキングでやたらとグラブルやマナリアフレンズ(最近はプリコネ)がランキングに入ってるのはなんでだろう〜と思っていましたが、グラブルのシリアルコード目当ての課金ユーザーが原因だったんですね。
こういった商法は、アイドルの握手券のように、券を取り出したらCDは捨てる的な反環境問題的ブルジョア行為をしている人間がいるのではないかと不安になってしまいますが、さすがにブルーレイは、中古店に持って行くなり、ヤフオクやメルカリに出せば、そこそこ費用を回収できるので、直に捨てている人非人はいないと信じたいです。
そろそろ、アイドルの握手券はCD等の物理媒体ではなく、WEBを利用した仮想媒体でどうにかすべきでしょう。
まさに世は、コロナ禍で、アイドルとの握手は元より、ライブすらも半規制され、ありとあらゆるメディアがWEBに移行しているので、この期に、何らかの仮想化措置が執られるかもしれません。
こんなときにフルダイブ環境があったらと考えると、こんな時でなくとも、そもそもフルダイブ環境があったら、結構な数の職種が家から出る必要がなくなるので、今まで描かれてきたSF未来像が激変しそうな気がします。
そんなわけで、一因目、二因目でモタモタしていたところに、本命のコロナ禍が起こってしまったわけです。
当初は、インフルエンザのちょっと強い版だから、特に気にする様な事でも無いだろう的に、ほとんどの国民が思っていたはずです。
だって、SARSやMERS(どっちもコロナ)のときは、こんなんならなかったし……
むしろ、どんなだったか記憶に残ってないくらいだし……
噂(多分、池上さん番組のうろ覚え)によると、そもそもSARSやMERSは日本に入ってこなかったらしいですね。
しかも、MERSは、8年経った今でも終息していない上に、ワクチンも無いとか……
MERSヤヴァ過ぎだろ……
新型コロナも、すでに国内の封じ込めに失敗しているので、いずれ全国民が罹るものと覚悟しておいた方が良いかも知れません。
だからと言って、ノーガード戦法で感染予防対策をしないと、医療崩壊を起こしてしまうので、なんだかんだ言っても、面倒でもマスクしたり、三密避けたり、自粛要請に従ったりしないと後悔することになるという事例が、まさか自分の身に降りかかろうとは……
よりによって、3月のコロナのヤバさが全国に知れ渡り、全国民がナーバスになり、コロナ対策で病院が一番右往左往しているときに、通院する羽目になろうとは……
確実に、平時よりも手術の質が下がっていた事は疑いありません。
しかも、当時は、三密が叫ばれている中で、病院だけが唯一、三密をブッチぎって、待合室がいつもより混んでいて、パンク状態でした。
コロナ患者がいたら、確実に院内感染を引き起こしていただろう事は疑いありません。
コロナの封じ込めに失敗した原因は、確実に病院に出入りしていた患者や業者だろう事は、想像に難くありません。
多分、いまだに、コロナの事をよくわかっていない人いますし……
そういう人が病院に出入りしてたら、そりゃあ、感染も広がりますわなぁ〜
一番よく居るタイプが、「マスクさえしてれば三密しても大丈夫」(マスク>三密)とか思っているタイプです。
下手をすると、全国民の3割以上はそう思っているかもしれません。
感染予防対策の最上位にマスクの着用が来ているのは、もしかしたらアベノマスクの仕業かも知れません。
というか、トイレからの感染って、あんまり報道されてませんね。
結構、初期段階で、尿や便にウィルスが含まれてるって言ってたのに、「公共のトイレには気をつけましょう」なんてあまり聞きません。(9月以降になって、たまに聞く様になりましたが)
便座式は、普通にヤバそうですし。
というか、飲食店とかの感染って、ドンチャン騒ぎ感染ではなく、トイレ感染説もある様な気がします。(居酒屋とかだとトイレで、しこたま吐く人もいますし)
コロナ禍はまだまだ終わっていません。
下手をすれば、MERSの様に8年以上続く可能性もあります。
さっさと感染して抗体を作れば、もう新型コロナに悩まされずに済むかと思いきや、普通に再感染するとかで(抗体が弱い、そもそもできない説も)、完全に八方塞がりです。
最近では、再び、単に感染力の強いインフルエンザ的な認識が広がってきていますが、日本が特殊なだけで、世界では、いまだに致死率の高いインフルエンザなので、油断はできません。
すでに新たな生活様式に適応してしまったので、日常でコロナ対策をとることは構わないのですが、たまに買い物の時にマスクを付け忘れると、マスク警察にジロジロと見られるのは、どうにかして欲しいものです。
どうせ買い物の時なんて、一言も喋らないんだから、そこまで邪険にすることも無いだろうと思いきや、このタイミングでキャッスレスやら、レジ袋有料化やらで、レジでの会話を余儀なくされるという冗談のような現実……
昔の様に無言で買い物できる日々が懐かしき、今日この頃……
――とまあ、このような外的な要因が遅筆の主要因ではありますが、今回の場合、お笑い、フィクション、娯楽論についての考察に無駄に時間が掛かった事も、かなり大きな要因です。
結果的に、紙面の半分くらい、それになっちゃってますしね……
実際の所、M−1の感想については、すでに2月の段階で書き終えていたのですが、ナイツ塙の言葉から、お笑いの真理めいたものの一端に触れ、とりあえず、それを文章にしようと思ってみたものの、毎回書き始める度に前回の内容を忘れてしまうので、前回の内容を読み返していると、続きを書く時間が無くなってしまうと言う地獄の無限ループに填まってしまい、結局、完成までにほぼ1年を要するという体たらく……
毎回の事ながら、自分の文章力の低さに絶望を禁じ得ません。
論調がネガティブっぽくなってしまったのは、コロナ禍の影響もさることながら、そもそも「真の自由」という物がネガティブなものだから仕方ありません。(「自由」は正義や善と並べられがちですが、「真の自由」には悪も含まれるので)
本文では、イジリの犯罪性について述べていますが、これは、昨年とりわけ報じられていた「激辛カレー事件」等の大人のイジメ問題で、「イジリはイジメか」というテーマが取り上げられた際に、それを否定する論調(イジリはイジメとは違う)が散見されたので、それを視聴者が真に受けるのは危険だという事で、こちらでも取り上げた次第です。
お笑い芸人が商売道具であるイジリを擁護するのは仕方の無い事ではありますが、格闘家が日常における暴力を否定しなければならない様に、日常におけるイジリの危険性についても、正直に公共の電波に乗せなくてはなりません。
そもそも、マフィア的な人を不用意にイジったら、コンクリ詰めにされるという事は誰もが知っているように、イジリが良ろしくない事であるという認識は、すでに全国民に周知されているはずです。
それにも関わらず、なぜか一般人に対しては平気でイジリを行ってしまう心理はミステリーです。
もしかしたら、一般人に対する危機感の喪失が、現実をフィクション(自分世界)と勘違いさせてしまうのかも知れません。
なぜなら、人は、本質的にフィクション(真の自由)を求めるものなのだから……
フィクション好きだな。
フィクション好きです。(ヲタク的意味でも)
なんだか、人の異常行動のほとんどは「フィクション的認識によるもの」で説明できそうで、意外と汎用性の高い説なのかもしれん。
暴論ッ!
うんッ!(元気良く)
もう令和ッ!(=もうえーわ)(←今更)
ありがとうございました〜
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